『思想』 2025年6月号 哲学史の中のドゥルーズ――生誕100年
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【特集】哲学史の中のドゥルーズ――生誕100年
一般誌としてきわめてハードコアな雑誌ですよねnagasena.icon
こういうハイレベルの雑誌が一般月刊誌として売られてあるのは、日本はとくに珍しいとのこと
数学者の河東泰之さんのブログで、一般の数学月刊雑誌(しかも専門誌にもまさるレベル)が3つもあって需要がそれなりにあって昔から続いているという話がある。それと似たような感じだろうか
「数学セミナー」「現代数学」「数理科学」
哲学となると、「思想」(岩波書店)、「現代思想」(青土社)が代表だろうか
「ユリイカ」(青土社)はカルチャーよりな月刊批評誌
「KOTOBA」(集英社)や「ゲンロン」(ゲンロン)は季刊誌だが哲学ふくめ広く批評を扱う
哲学のその抽象的なめまいについて思うこと
この雑誌において一般向けとして読みやすいのは
財津理さんの巻頭言
上野修さん
平田公威さん
檜垣立哉さん
かなと思います
とくに平田公威さんは意識的にパラフレーズをしてくれるので読者を置いてけぼりにしない感じですごくいいです
https://gyazo.com/34490533c510a526f4ab8f2cc7f514d8 https://x.com/books_tokyodo/status/1928749358435926360?t=ZvB7OpilKhByaFl8cfMcgA&s=19
たいして「否定的」とことさらいうほどの言及は…たぶんそんなクリティカルな否定というより、AI、あんまよくわかんないけど、大したことないぜ、的なよくある本郷文系でしょ、とおもって読み飛ばしてた
堀千晶さん論文のあとがき(p122)
ネット社会に取り込まれ、さらにAIによって益々自分たちの内部性の形式すべてを外延化させて満足しているような時代にあって、外部性の形相としての地球という見事な〈巨大分子〉のなかでの生の様式しか存在しえないことを認識する必要がある。
まあ、檜垣立哉さんが「裏で密かにーー机の下でドゥルーズを読んでいた(笑)」(p23)と言うように、「裏で密かにーー机の下で」AI / LLMを研究(笑)するのがいまの本郷大学院生ということになるのでしょうか
思想の言葉  財津理
エッセイ。面白い。『差異と反復』の再翻訳をしようとしているとのこと。ヘーゲルの大論理学を読み直しているらしい。ほぇ。
〈討議〉超越論的経験論と哲学史  宇野邦一・合田正人・檜垣立哉
ドゥルーズとスピノザ、ひとつの気懸かり――『スピノザ講義』から  上野修
面白い。ドゥルージアン・スピノザ主義、スピってね?という気懸かり
ドゥルーズとドゥンス・スコトゥス――哲学史の中のドゥルーズ  山内志朗
熱い。ほとんど中盤、中世哲学の史学的整理に文章が割かれており、よくわからなかったが、なぜ西洋哲学(そしてドゥルーズも)は「存在(論)」にこだわっていたのか、ということのエッセンスがみえた。
俺の考える最強の何かをめちゃくちゃ 理論武装している感じ。
時間的先行性や論理学的なカテゴリー、空間的な絶対性、あらゆる点で最強を突き詰めると
はちゃめちゃになる
やばすぎ、中世哲学、という感想
物体、非物体的なもの、出来事――ドゥルーズ『意味の論理学』におけるストア哲学受容について  平田公威
『意味の論理学』の論点整理。とても勉強になる。ちゃんと面白いです。
発生の空間、時間の動物性、至福――ドゥルーズ「ライプニッツ小品集の註解」読解  堀千晶
ライプニッツってobscure(曖昧/暗さ)の哲学者だよなあ…そこにマイナー性を感じて掘り起こしたのがドゥルーズということか。なんだか妖しい雰囲気の漂う論考(しかしそれはスピるとかオカるとかではなく、思考の道程のシュヴァルツ・バルト、魔女や魔物が潜んでいそうな思考)。ラテン語ジャーゴン(コナトゥス、インペトゥス...)がちらつく。そういうところ、ライプニッツ。
「諸コナトゥスの積分がインペトゥスとなる。今度はインペトゥスじたいが微分となるのだが、ただし延長の微分である。インペトゥスとは、速度が加速した瞬間に通過する空間のことである」
〈内在性の問題〉への前哨――ドゥルーズと多孔質的思考について  江川隆男
パラフレーズできないくらいに難しい……江川さんの論文、いままで一本も読んで理解できたことがないんだよなあ……厳密にガチガチすぎて学部生程度のドゥルーズかじった予備知識では読めないな……ちゃんと読めるようになりたい
内在と超越の話をしていることだけわかる…ドゥルーズにおいてここらへんがすごく錯綜しているからだろうか。単に超越ダメで、内在だー、っていっているわけではない(ドゥルーズのなかでも超越をどう扱うか、そして超越を骨抜きにして(強度=0の器官なき身体をベースにすることで)いかに思考が可能かを問題にしているから。←こういう「〜〜は可能か」と思考すること自体が超越論的なのである)
哲学者のなかでもふつう誰も手をつけたくないような問題に正面きってぶつかっていっている、やばい人
ドゥルーズとキルケゴール――反復/この世界への信/イロニー・序  檜垣立哉
キルケゴール概観なのでとても読みやすい。論点を整理してくれている。
3つの主題があたえられているが、文量的にも熱量的にも「この世界への信(croire en ce monde, en cette vie)」が檜垣さんにとって大きな関心事になっている
超越を偽装して内在へと跳躍していくものとしてキルケゴールを読解するドゥルーズ
「無限の平面を(…)これが有限なものを無媒介的(=跳躍、賭け)に与えつづけ、与えては受け止める純粋な内在の平面になるだろう」
「時間性と永遠性」、あるいは「有限性と無限性」との綜合を思考するキルケゴール
このキルケゴールのヘーゲル的弁証法の色を脱色しながらドゥルーズは読み直す
有限性と無限性とが単純に調和しないこと、そしてそれはつねに歪なかたちで現出する「瞬間」を、一種の、不可視のきらめきとしてとらえようとする
超越の平面へ、ではなく内在の平面へ着地するために。
ヴァルター・ベンヤミンの、外国語から母国語(あるいは外国語)への翻訳という、まさにその間としての翻訳の一瞬間にこそ現れる不可視のきらめきを捉えることといっていたことと通底する
解釈の「独創性」について――G・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』の「いま」  須藤訓任
the哲学研究論文。一般向けというより、研究者、とくにニーチェ解釈とドゥルーズ解釈についての妥当性、あるいは解釈することと哲学史研究そのものについて検証する。
ニーチェ哲学において「ルサンチマン・やましい良心・禁欲主義的理想」の3概念がとりあげられ、そのドゥルーズによる解釈と、ドイツ語圏のニーチェ解釈との対比をみる。
あまりピンとこなかった
研究のための研究だ
まあ、研究者にとっては重要(戦略を立てる上で)なんだろうけど、「独創性」ってタイトルだからもっとスリリングかと思ったら地味だったなあ
雑にいえば、結論としてはドゥルーズによるニーチェ解釈は、必ずしも伝統的なニーチェ解釈の「いま」とは適合しないけど、でもまあ別軸でいいトコついてるよね、と。
解釈とはいったいなんなんだろうね、と。
ドゥルーズっていうビッグネームによるニーチェ研究って、ニーチェ研究そのものより、ドゥルーズ研究にいくよね、みたいな。
ドゥルーズによるニーチェ研究をよむドゥルーズ研究者
経験の下へ――ジャン・ヴァールとドゥルーズの忘れられた関係  押見まり
ジャン・ヴァール紹介
概要的。哲学史研究における地道だが必要な仕事をやっている。ヴァール自体があまり研究が進んでいないため、そこまで深いところまでは言われていない。パンチライン弱め。
同じものはちがう。ちがうものが同じ  中村昇
第二節(ドゥルーズとホワイトヘッド, p187)が『差異と反復』の概略的でよくまとまっていて勉強になる
が、そもそもの書が難しくてわかるようで、わからずにふわふわする
自分の思考の筋トレが足りてない
ドゥルーズの重要な概念であるところの「構造」(構造主義といわれるゆえん)についての話
あるいは「潜在性」「多様体」といわれる
ドゥルーズの「多様体」概念は、一般に「多様性」と、誤解されている気がする
多様性 → みんなそれぞれ違うまま、単純化されず、それぞれが複雑なまま、複雑なものとしてユニークにあること
多様体 → 形状も意味もない多様(「潜在性」)が、多様なままで、それぞれが特異性をもち、つまりひび割れ(亀裂)が走っているなかでも、問題が問題のまま実在していること
〈私〉はひび割れた存在である
にも関わらずそのまま実在する
ひび割れたコギト・エルゴ・スム
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〈討議〉超越論的経験論と哲学史  宇野邦一・合田正人・檜垣立哉
話題が極めて分散していく、流動的な討議。あー、。というか、お互いキャッチボールが出来ているのか?喋りたいことを喋っているだけじゃん。まあ、そんなもんか。お喋りって感じだなあ。とはいえ、現在の日本のアカデミアにおいてドゥルーズがどういうように捉えられていて、どこと繋げられて、論じられているのか、どこに関心があるのか、というのは分かる。
一般に注目されがちな、あるいは「ドゥルーズ」言われたときに実際にはドゥルーズ=ガタリを指していることが多い中、日本ではドゥルーズ個人の哲学への研究が進んできた。
言語学ではなく文学
ドゥルーズと言語学周りがいまだ整理されていない現状
パラドキシカルな思考(有限な無限/無限な有限、「卵」でもあり「死のモデル」でもある「器官なき身体」(エントロピーのパラドックス))
キリスト教
ハイデガーが好きではないドゥルーズ
日本哲学
西田幾多郎、吉本隆明、寺田寅彦
宇野邦一
合田正人
檜垣立哉
70年代の日本におけるドゥルーズ
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「フランスから変わった思想が出てきた。これは流行しそうだ」
→ この時点では一過性の流行だろうと思われていた
ドゥルーズ紹介者が哲学研究者ではなく、フランス文学研究者が多かったということも背景にある
初期の紹介者
宮川淳、蓮見重彦、豊崎光一
影響
中沢新一
人類学的思考とリゾーム概念を取り込む
吉本隆明
「彼の座り机の横には『カフカ』が置いてあった。ちょうど読んだばかりだが、こんなカフカ像がどこから出てくるのかわからない、と驚いていました。」
フーコ―に対しては高い評価を与えていたが、ドゥルーズ=ガタリには厳しかったという印象
ドゥルーズ=ガタリのいう「政治的無意識」は無意識を一気に政治的・社会的面に解放してしまうので、吉本の「対幻想」概念には合致しなかった
『ハイ・イメージ論』『マス・イメージ論』などの発想には『千のプラトー』のいいところを吸収した影響がある
柄谷行人
ドゥルーズ=ガタリに対しては一貫して警戒的だった
「リゾーム」「器官なき身体」は新自由主義に呼応するものだと批判していた
Nagasena.iconたしかに…そうだよなあ、すごい炯眼だ。
『パイデイア』『現代思想』『エピステーメー』(中野幹隆 編集)
70年代(浅田彰以前)にドゥルーズ紹介
『リゾーム』翻訳(『エピステーメー』創刊二周年記念号)
『プルーストとシーニュ』『ベルクソンの哲学』(法政大学出版)
坂部恵『仮面の解釈学』
ドゥルーズ読解の先駆的な取り組み
「仮面」「影」「分身」「写し身」といった文脈でドゥルーズを引用しつつ読み替える
80年代の日本におけるドゥルーズ
浅田彰『構造と力』
ドゥルーズ=ガタリ読解の側面
ドゥルーズ個人の哲学へのアプローチは『差異と反復』財津理さんによる翻訳によって本格化した節がある(檜垣)
『千のプラトー』読解
70年代とは一線を画する本格的な哲学的解釈の試み
宇野さんが受けてきたドゥルーズの授業(ヴァンセンヌ時代)
「ドゥルーズの授業に参加する学生たちのほとんどは、単位のために集まったわけではない自由聴講者でした。大教室ではなかったから、早い学生たちは一時間くらいまえから待っているわけです。少しでも多くの学生を入れるために、教室の机は全部取り払われていた。そこにぎゅうぎゅう詰めに座って、みんな膝の上でノートを取る。喫煙する者も多く、マリファナの匂いさえする。ソルボンヌの哲学講義とはまったく様子の違う、異様な雰囲気だったことを覚えています。」(宇野)
68年以降に何が可能かを問うなかで生まれた学校
ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』、「神秘主義」についての箇所
「二重狂乱」
徹底的な神秘主義は徹底的な機械主義を必要とするし、徹底的な機械主義は徹底的な神秘主義を必要とする
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ドゥルーズとスピノザ、ひとつの気懸かり――『スピノザ講義』から  上野修
ドゥルーズのスピノザ主義、根本的な問い
<なぜ純粋な存在論の企てがエチカ(倫理学)とよばれるのか」
nagasena.iconドゥルーズにとって道徳と倫理が明確に区別されてこだわって倫理を語るのは、スピノザ主義のドゥルーズ…ここにあるのか
「哲学には哲学的感性とでもいうべきものがあってね、私の例をあげましょう。デカルト?私にはぜんぜん分からない。ぜんぜん興味もない。手に取ってもすぐに放り出してしまうし、本当にイライラする。だがスピノザは別だ。あなたが愛する哲学者を見つけなさい。批判なんかをしている暇はない。あなたが読んでいる著者との分子的なつながりのことを私は言っているのだ。スピノザ主義者であること、それはスピノザの教説をすべて知っているという意味じゃありません。スピノザのあるテクストに揺さぶられ、”そりゃそうだ、そうとしか言えない”というふうな感じを持ったことがあるという意味です。そうでないならスピノザなんか読まなくていいし、この講義に出てくることもありません。」
原文はSpinoza講義(1980-1981)にあるみたいだが、未確認
私にとってはスピノザは哲学の真に偉大な詩人の一人です。当然ですが、もしスピノザに詩があるとすれば、それはむき出しの光の詩なのです。スピノザは隠された謎というものを知らない。すべては明るい光のなかで進行し、影はどこにもないのです。
上野さんがただしく指摘しているように、スピノザの存在論(オントロジー)としての「存在様態」une maniere d^etre(つまり、存在者は一個の実体ではなく、一義的存在のある様態、そしてそれとして自分を感じること)は、たしかにドゥルーズの言う「平面 plan」のイメージに引きずられ、<自分が限りなく接続し連鎖する連続的でフラットな広がりの上にいるかのように思ってしまう>恐れがある。端的にいって「わたしは宇宙のあらゆる生命体とつながっている、宇宙なんだ」というスピノザ主義がスピってしまうことを意味する。スピノザ主義をスピらせないために、その平面に「不連続」と「相互外在性」を導き入れること、これが課題になる。
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ドゥルーズとドゥンス・スコトゥス――哲学史の中のドゥルーズ  山内志朗
「存在(論)」がなぜ問題なのか、そしてなぜ難問なのか
存在/非存在というように分けて考える時、そこに関係性の差異が生ずる
ではその差異は「存在」なの?「非存在」なの?
関係性は「存在」してるの?「非存在」してるの?
→もし関係性が「存在」してるなら、じゃあ存在/非存在と分けた時の差異(「/」)も存在に分類されるので、分けれないよね?
逆もしかり
存在の外部としての差異をもちえない限り、「存在」の内部に「存在でも非存在でもない差異」を含まなければいけない
「存在の関係の差異は、存在の自己述定となるしかない」(p51)
∴「存在」の内部に「存在でないもの」(存在のある種の否定)がふくまれている、あるいは潜在しているともいえる
「存在論的残余」
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物体、非物体的なもの、出来事――ドゥルーズ『意味の論理学』におけるストア哲学受容について
ストア哲学、物体と非物体的なもの、ギュスターヴ・ギヨーム(ソシュール言語学、ラングからパロールへの生成はいかにして?)ライプニッツ(共可能性/共不可能性、両立可能性/両立不可能性)、ストア哲学的な超越論哲学(カントやフッサールのような「私」を中心とした超越論哲学ではなく、非人称的なものの超越論:具体的には「不定法」)
「非物体的なもの」…「存在の仕方」とか「出来事」あるいは「歩く」とか「切られる」といった述語のような、実在には関わらない属性、そしてそれはとうぜん認識上の効果、結果でしかない
物体にかんする「表現できるもの」、言語によって「意味されるもの」、それは確実な知をもたらさないもの
「彼は歩いている」
「歩いている」という属性は、そのときは「真」かもしれないが、数分後には「偽」かもしれない。常にその都度変わっていく。
ジョー・ブスケ(詩人)
「私の傷は私よりも前に実在していた。私は傷を受肉するために生まれてきた」
WW1で傷を受けてそれ以降半身不随の寝たきり生活になった詩人
ブスケにとって問題は、物体的な生ではなく、非物体的な思考上の生
「自分自身の出来事の息子になること、そして、それによって再び生まれること、出生をやりなおすこと、肉の出生と訣別すること」(『意味の論理学』)
身体が否認されるわけではない
あくまでも身体から思考は生じる
体験から思考が生じるという「出来事 événement」
「意に反して受け取られる思考」
偶発的な瞬間の出来事
「私」は「偶発事 accident」でしかない
nagasena.iconここに、自分が常日頃感じざるをえない、内的なアイデンティティ(それは他の人に対するキャラクター性とか社会的ポジションとかではなく、「根源的な問い、つまり無意味な問い」としての「私とは」)に関する<ゼロ>がある気がする。<ゼロ>ではあるが、Nihil(虚無)ではない。たしかに自分は身体を持っているし、思考するし、行動するし、生活もする。だけどなにか強い意志なり覇気なり力なりを能動的に行使しているという感じがしない。もちろんそういう瞬間もある。しかし根本的に何かが違う。それが<アイデンティティ・ゼロ>(と仮に呼ぶ)か?ゼロだが、身体をもつ。ゼロだが、思考する。その都度。いまのところ言葉にすることは難しい。だが、なにか「非物体的なもの」(思考上の生、思考上の倫理)からの「出来事」がなにかアイデンティカルな属性を賦与している気がする。『意味の論理学』で言われるところの、「非物体的なものからの発生の産物としての「私」」
nagasena.iconこのドゥルーズの「物体」/「非物体的なもの」の話は、ストア哲学の(倫理学・自然学とならぶ)論理学をベースとしているお話のために、なんだかとっつきづらく、難しい。ややもすれば無味乾燥にも思える。